生きていることが経済活動か?

最近は、40代子育て共働き夫婦で、毎日がめまぐるしく忙しくて

ふと考えることも以前ほどではなくなったけれど、両親が高齢だった

こともあり、祖父、おじ、おばの葬式から年を重ねて親類縁者の

葬式を何度も何度も経験してきて思うのは、産まれても、生きても、

死んでも、お金ってかかるんだなぁぁぁと感じます。

産まれる、生きる、死ぬ、本人やその家族たちなど、かかるお金を

計算すると、そら恐ろしいことになる。

出産費用、生きることにかかわる食事、衣類、養育、教育、居住費、

大人になれば税金、保険、死ねば火葬や葬式、お寺に払う

供養料(?)、お墓代などなど・・・

いちいち、誰がお金を用意するかっていうと、養う家族や本人なのだけど、

お金がなかった時代は?生きれなかったか?まともに死ねなかったか?

と思えば、そうでもないだろうけど、昔の時代を生きていないから

わからない。でも、こうして一般庶民が多数あって国が成り立ち、私らが

生きているのだから、それなりに一生をまっとうに過ごしたのであろうと

思います。歴史に残る書物には有名な方たちの話を有名なところだけ

知られてて、一般庶民の生活は、それなりの記録はあるのだろうけど

そんなに興味を持って読んだり知ってはいないので想像ではありますが。

人の一生って、長い歴史をみれば、ほんのささいな、瞬きのようなものなのに、

自分にとっては、いかに長いか、難しいか、どうやって生きよう?みたいな

迷いや、悩み、悲しみ、苦しみを感じます。

今の自分の生活が、それ程困窮しているわけではないのに、年収いくら

みたいな話を聞くと自分の家庭収入がいかに少なく、節約に励んではいる

ものの、老後の生活や子どもの養育費、病気や事故、災害のことを考えて保険に

入ったりしてると、お金がいくらあっても足りない。稼ぎは少ないけど、きっと

稼ぎが増えても不安は尽きないのだろうと思います。

今、こうして健康に事故にもあわず過ごせていると、今まで払った保険代が

もったいないと感じたり、今払っている個人年金など、本当にありがたいのか?

と疑問を感じます。「何もなくてありがたいと思える感謝料」と思えば納得か?

本当に困窮してくれば、「死んだほうが得じゃないか?」なんて考えも出てくるかも。

そうなると、何が幸せで安心なのか、わからなくもなります。

一般的に、これだけの保険料に入っていれば安心、という目安はあるのだろうけど、

家庭事情によって様々違うだろうし、そのためにファイナンシャルプランナーなる

ものがいるのでしょう。

しかし、その相談さえも拒むのが、私以外の家族の「安心と思える料金」が違うこと。

それが親や小舅、姑、ともなると、考えを変えられない。嫁が言おうものなら

とんでもないことに。嫁が、理路整然と納得できるように話しても、感情が

「私の思いをふみにじって~!」となります。

納得させるには、長い時間と、準備と演技が必要です。あ~そんなエネルギーない。

老いた親を持つってことは、本当に、疲れます。きっと、元気でも、元気で

なくても。そう思うのは、自分が幼い頃や、大人になる過程でいかに自分が大事に

されているといった実感がなかったからなのでしょうか。

自分の子どもには、私が自分勝手に扱いにくいばあちゃんになっても、愛情や感謝の

気持ちをもってもらえるように、今を、大事に大切にしたいと思います。

経済というと、需要と供給からモノを売る、買った、払った、などの活動から発生する

ことなのでしょうけど、どんなに節約しても必要なかかるお金ってあるわけで、

生きている限りは、いや死んでもお金がかかることであり、「お金」って、どんだけ

必要かどうか見極めることって大切なんですね。

その見極め、あきらめができなくて、のらりくらりと宝くじに当たることを夢見て、

程よく稼げる話はないかとさまよっている私です。